Fujiyama Kenzan

フジヤマケンザン
鹿毛 牡 1988年4月17日生
父 ラッキーキャスト 母 ワカスズラン 母父 コントライト
競走成績 38戦12勝
1992年 中日新聞杯 (GV) 1着
1995年 中山記念(GU) 1着
1995年 七夕賞(GV) 1着
1995年 香港国際カップ(GU) 1着
1996年 金鯱賞(GU) 1着
 名伯楽戸山為夫がミホノブルボンレガシーワールドの前年に送り出した一頭。新馬勝ちの後強気の900万挑戦で勝利、準オープンでは2着に敗れるも春の二冠馬トウカイテイオーを欠く菊花賞出走が適いそこで3着に健闘。翌春には中日新聞杯で初重賞制覇。戸山の死後、一時的に鶴留厩舎に移籍したフジヤマケンザンだが人気を背負って敗北を繰り返す。そして開業した戸山の弟子・森秀行厩舎に転厩することになるのだが…
 以降のことはあまり書きたくない。管理人は森調教師の腕は認めても、戸山厩舎で一緒にやって来た小島貞や小谷内などに冷や飯を食わせた、さらに厩舎のエースであったミホノブルボンを引き取らなかった事実がどうしても癇に障るためどうも「森厩舎の馬、フン」となってしまう。ちなみに戸山未亡人は森に戸山が探してきた馬だけは小島や小谷内に調教を付けさせろと懇願したと言われており、彼らもそのため森厩舎に通い詰めたらしいが馬にすら触らせなかったと言われている。フジヤマケンザンが大井の帝王賞に出走しヤネ岡部で断然の一番人気だったが管理人は「これが来たら坊主になる」と宣言して、スタビライザー軸の馬券を手に絶叫しまくったのも若き日の思い出である。結果フジヤマケンザンは「森の選んだ賞金重視・ワケのわからないローテーションのおかげで」勝ったスタビライザーから5.6秒遅れで「生涯最大の屈辱的敗戦」を喫したことを付け加えておく。
 馬に恨みはないので最後に日本調教馬初の海外重賞制覇を果たした栄誉は称えておかないといけない。あくまで称えるのは「戸山為夫に育てられた名馬」フジヤマケンザンとしてです。 
 種牡馬になったフジヤマケンザンは一頭の勝馬も出せないまま、現在は吉田牧場に戻り余生を送っている。そうそうこの馬で一番重要なことはあのテンポイント一族の末裔にあたるのです。吉田牧場は結局この系統を生かしてきた牧場です。こういう肝心なことよりも森厩舎へのグチが先んじてしまうとは…この馬がいた時期のことなもんでついつい…mmm
現況(2010/9現在):BTC助成対象功労馬(安平町・吉田牧場)

2006/10/25

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