Miho Shinzan

ミホシンザン
鹿毛 牡 1982年4月16日生
シンザン 母 ナポリジョオー 母父 ムーティエ
競走成績 16戦9勝
1985年 スプリングステークス (GU) 1着
1985年 皐月賞 (GT) 1着
1985年 京都新聞杯 (GU) 1着
1985年 菊花賞 (GT) 1着
1987年 日経賞 (GU) 1着
1987年 アメリカジョッキークラブカップ (GU) 1着
1987年 天皇賞・春 (GT) 1着
 このコラム内で何度か記しているが競馬はBlood Sports、血が演じるドラマであるところに管理人は魅力を感じている。勿論管理人も馬券から競馬に嵌りプチギャンブラー紛いのことをしていた時期もあるが、競馬を知ってから十余年経ち、北海道に馬見学の旅をするようになってから前述のような楽しみ方を覚えてギャンブラーを事実上卒業した次第である。
 Blood Sportsの観点で見たときに数多くの二冠馬から興味をそそられる馬は恐らくトウカイテイオーかこのミホシンザンが双璧であろう。それは自身の残した偉大な実績以上に日本競馬史上最強の座を二分するシンボリルドルフとシンザンの「最高傑作」たちであり、ドラマの脚本として書けばあまりに都合が良過ぎてこんな話書けないと言われかねないストーリーを演じて見せた両雄だったからである。ミホシンザンがデビューする前年と前々年にはミスターシービーとルドルフという三冠を制した馬が二年続けて誕生していた。その流れの中、正月の中山でデビューしたミホシンザンの勝ちっぷりには三年連続の三冠馬を予感させるもので、ましてやその父がシンザンとあれば騒がれない訳がなかった。ゴール前で他馬に影も踏ませることもないまま4戦目に無敗で皐月賞を制した時には3年連続三冠馬の誕生を誰一人疑わなかったが、好事魔多し…ミホシンザンは骨折でダービーを断念する…幸い軽症で秋には復帰するも京都新聞杯で初黒星を喫す…しかしミホシンザンは菊の大舞台で見事な復活勝利で二冠に輝く。後に主戦・柴田政人はミホシンザンが故障がなければ三冠を取っていたのではないか?との問いにミホシンザンの重馬場に対する不適性を挙げて当日不良馬場になったダービーは難しかったと答えている。柴田にとってその時点で唯一のチャンスであったのは事実であるもののこの不運を乗り越えた柴田は8年後によりドラマチックな形で栄光をモノにする。
 話をミホシンザンに戻す。ミホシンザンは4歳(旧表記)の最終戦で最強馬として父と並び評されるシンボリルドルフとの対戦を迎える。このレースで2着に入るもルドルフには置き去りにされる屈辱的な大敗を喫する。間接的比較というのも乱暴であるが父シンザンと皇帝の代理戦争と見られたこのレースでの敗退以降、ミホシンザンは長いスランプに陥る…5歳時のミホシンザンは二度目の骨折で天皇賞春を回避。秋には人気で勝てずを繰返しその姿はさながら初代ブロンズコレクターと思えるものである…しかしファンはミホシンザンをずっと支持し続け、それに応えるかのように明け6歳にしてミホシンザンは突如甦る。一流馬としては異例の正月競馬AJCCでアッと驚く逃げを打ち先頭ゴールを切ると続く日経賞では全盛期を思わせる圧勝。その勢いでミホシンザンは父が制したもう一つのタイトル・天皇賞・春に大本命として歩を進める。ミホシンザンは天皇賞を制した。しかしハナ差で2着入線のニシノライデン斜行→失格がレースの評価も流れも変えた。真っ直ぐ走ればニシノライデンだった…、不利を受けなければアサヒエンペラーが突き抜けていた…etc…。
 天皇賞で限界を見せたミホシンザンは親子三代クラシック制覇の夢を課せられ種牡馬生活を送ることになった。それ以上に生産者の谷川氏は皐月賞後の骨折がなければミホシンザンはもっと強かったと言いそれを証明するための闘いに懸命になった。しかしミホシンザンから優れた産駒は出ないまま種牡馬を引退した…。
 だが管理人の中では確かに光り輝く素質を持った産駒が一頭記憶に残る。マイシンザン…奇しくも柴田がダービー制覇したウイニングチケットと同期の馬だ。この馬の能力に関しては決して同期の平成新3強に劣るものではなかったが気性の問題とミホシンザン同様足元が弱かった…。4勝のうち2勝をレコードで勝ち2つの重賞を勝ったこの馬が、サクラチトセオーが勝利した天皇賞を勝っていたはずだと管理人は信じている。タラレバが競馬で禁物だというのなら信じたいという希望的な言葉にしても良い。それだけシンザン〜ミホシンザンという偉大な親子が演じたストーリーの終焉が寂しかった。血のドラマにハッピーエンドはないと知っていても…
現況(2010/9現在):BTC助成対象功労馬(清畠・谷川牧場清畠事業所)

2006/11/25

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