Narita Taishin

ナリタタイシン
鹿毛 牡 1990年6月10日生
父 リヴリア 母 タイシンリリイ 母父 ラデイガ
競走成績 15戦4勝
1992年 ラジオたんぱ賞 (GV) 1着
1993年 皐月賞 (GT) 1着
1994年 目黒記念 (GU) 1着
 3強の競馬は面白いというが平成5年のクラシックでビワハヤヒデウイニングチケットと並んで平成新3強の一角を占めたのがナリタタイシンである。とはいえ弥生賞でウイニングに完敗したタイシンは皐月賞の段階では離れた3番人気に過ぎずBW決戦と2強ムードが漂っていた。当時既に勝鞍では両ベテランを凌ぎ日の出の勢いだった武豊の腹を据わった後方強襲策が最初の一冠をタイシンにもたらし、ダービーでの3強対決に名乗りを挙げたのである。この3強が騒がれた理由の一つは当時のトップジョッキー3強がそれぞれの手綱を取ったことだろう。ビワ=岡部幸雄、ウイニング=柴田政人、タイシン=武豊。ダービーは3強拮抗の人気であったが、両ベテランの意地の前に付け入るスキはなく着差以上の完敗であったといえる。皐月賞で成立した3強体勢だが、実際にはこのダービーまでの僅か2ヶ月で崩壊することになるとは誰も思わなかったであろう。
 秋になるとタイシンは予定した京都新聞杯を肺出血で回避。陣営はそれでも菊花賞出走を強行したもののそれはいつもの後方待機ではなく付いて行くのがやっとのレースとなり、レース中に心房細動を発症したネーハイシーザーに先着したのみに終わる。春には復活勝利を挙げるも天皇賞ではビワハヤヒデに完敗する。その後タイシンは奇しくも後にBWが揃って天皇賞秋のレース中に発症し引退する原因となる屈腱炎を患い長い休養に入る。翌年宝塚記念で復帰したものの見せ場もないままシンガリ惨敗を喫し引退した。 
 繁殖に上がったタイシンだが早逝した父リヴリアの後継として期待の反面、小柄な馬体が嫌われ決して恵まれたとは言えない状況で目立った産駒を出せないまま2001年に種牡馬を引退した。
現況(2010/9現在):BTC助成対象功労馬(沙流・ベーシカル・コーシング・スクール)

2006/10/15

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