Legacy World

レガシーワールド
鹿毛 騙 1989年4月23日生
父 モガミ 母 ドンナリディア 母父 ジムフレンチ
競走成績 32戦7勝
1993年 ジャパンカップ(GT) 1着
1992年 セントライト記念(GU) 1着
 1991〜2年にかけて戸山為夫調教師のスパルタ調教が注目を浴びる。戸山流の申し子、暁の超特急と呼ばれた二冠馬ミホノブルボンが時代の寵児としてその圧倒的なスピードを武器にターフを席巻していた。しかしその陰で戸山師が二冠馬と同年であるもう一頭の秘密兵器を抱えていたのに気付かされたのは92年晩夏・北海道での条件戦であった。
 当時はまだPATも一部の地域以外ではそれほど普及しておらず3場全てのレースを買える時代ではない。関東なら関東の12レースをお楽しみ下さいという時代で現在のように毎週重賞が設置されメインレースの相互発売をするという体系になったのもこの翌年くらいと記憶している。そういう時代だから北海道の夏競馬があると2レースをまとめて購入するのに慣れておらず、まともな予想などせずに馬券を購入することもあった。この馬との出会いもレガシーワールドという名前が気に入ったことと、過去2レース分しか出ていない馬柱の成績が1、3と表記されていたことくらいだったような?しかしこのレースは強かった。記録で確認すると2.1秒差。ミホノブルボンと違いスピード馬ではないものの深い上に重発表の函館洋芝での快勝劇にそのパワーの凄まじさを感じざるを得なかった。
 翌月にはライスシャワーを抑え重賞を制覇するとますますその期待は大きくなる。その後東京スポーツ杯、事実上のジャパンカップ出場決定戦としてヒシマサルと激突したドンカスターSとOPハンデ戦を連勝する。時を同じくして僚友ブルボンが菊敗戦、そして故障休養が発表された。ここでレガシーは本格的に表舞台への進出を開始する。未だに最高のメンバーだったとさえ評される第12回ジャパンカップで4着、有馬ではメジロパーマーをハナだけ捉え切れずの2着。正月のAJCCでホワイトストーン復活の引き立て役の後、休養を挟み秋にはメジロマックイーンの2着。
 そしてレガシーにとってたった一度の栄光の日を迎えることになる。戸山が癌に倒れ新生・森厩舎に移籍して迎えることになった第13回ジャパンカップ。コタシャーン=デザーモがゴール板を間違えたオチは全く関係ない完勝だった。実は管理人が初めてGT競走を生観戦した日でレガシーワールドーウイニングチケットの馬連2-8を100万戻ってくるようにン万円単位で購入しており、デザーモに「そのまま間違えておかんかい!」と突っ込みを入れ周囲の失笑を買ったことを覚えている。
 しかしレガシーの輝きはその一度で失われた…屈腱炎を患い20ヶ月の休養を挟んだレガシーは以降13戦して掲示板に一度載ったのみでターフを去った。復帰後のレース選択は疑問が残るものばかりで、中でも10万馬券となったマイルCSでは翌週のジャパンカップに選ばれる見込みがないという理由で同じ騙馬のジャパンカップ馬マーベラスクラウンと2頭で出走してきたのが痛々しく感じた。 
 レガシーの生まれ故郷へいはた牧場の風景はいつ見ても空と大地が限りなく広がり本当に素晴らしい。相棒のポニーと一緒に放牧地で一点を見つめて佇む姿は競走馬時代に見られなかったものだ。血は残せなくても「世界の遺産」と付けられたその名は確かに日本競馬の世界制覇の歴史に残るものである。
現況(2010/9現在):BTC助成対象功労馬(新ひだか町・へいはた牧場)

2006/10/25

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